手も足も、出す

ユン ヒチャンのよしなしごと



板状の粘土を作るのに、手で粘土を伸ばすかわりに、裸足で粘土に乗った。

折からのクールビズスタイル、つまり、半ズボンに裸足だったし。


心地好い。


足の裏も、掌と同じ、感覚器官だったと、あらためて思い出した。



(終)





2011.07.16 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 作品

窯出し

$ユン ヒチャンのよしなしごと




なんど経験しても、窯の蓋を開ける瞬間は、ドキドキする。

大きな作品は、何度もテストをして、それから本焼きにかかるので、そうそう失敗する事はない。

それに電気窯は、ガスや灯油や薪のように、炎で焚く窯はと違って、温度や炉内の状態を把握しながら焼成できる。

だから、結果はいわゆる「想定内」であるし、またそうでないと困るのだが、それでも、焼いている時間と、電源を切って冷ましている時間も含めた数日間は、特別な気持ちで過ごすものだ。

これまでに何度か経験した、手痛い失敗からくる不安もある。しかし、期待のほうがいつも大きい。

粉っぽい粘土でできていた作品が、叩くとコンコンと音がする「陶」になって、存在感をもって、目の前に現れるのだから。


  ● ●


「粘土を焼く」ということは、炉内を高温にすることで、化学反応を起こさせるということ、つまり、常温の時よりも、ものが変化しやすい状態を作ることだ。

醒めた目で見れば、毎朝トースターでパンを焼くことと、原理としては似たものがあるのは確かだ。
しかし、食べ物を焼くための、200-300度はいいとして、焚き火でかなり頑張っても、800度近くまで温度を上げるのはかなり大変なことだ。
まして、鉱物を1200度以上の温度のなかで、化学変化させることは、かなり特別なことなのだ。

土を固めて焼いただけの普通のレンガは、たいてい800-1000度で溶け、窯は崩れてしまう。(最初の耐火煉瓦を焼いた窯の耐火レンガはどうやって焼いたのか考えていると、地下鉄の電車はどうやって入れたのかと、夜も眠れなくなってしまう。)

耐火レンガ以外にも、、鉄板で囲われた温度があがりやすい窯、高温でも溶けない熱線、陶芸の世界ではあたり前だが、一般には特殊な道具のおかげで、粘土を高温の状態にすることができるのが、「焼く」ということだ。


粘土でできていた作品は、窯のなかで、化学反応をする不安定で特別な状態を無事に乗り越えて、安定した物質「陶」になって出てくる。そんな窯出しの瞬間は、だから、特別な儀式を通過した「もの」と出会うような、晴れがましい気持ちが、呼び起こされているのではないか。

それは温度管理をコントローラーがするような電気窯であっても、消えはしないのかもしれない。


$ユン ヒチャンのよしなしごと


焼き上がった「そこに在るもの」の拡大表面




(終)







2011.07.12 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 作品

窯に詰める


$ユン ヒチャンのよしなしごと



窯詰め完了の図。

きれいに納まりました。いかにも「詰めた」感じです。

手前の2つは、一片が50cmです。

重いのでチェーンブロックでつり上げて窯に載せました。

400度まで24時間かけてあぶってから、温度を上げ始めます。


パンパン。(柏手)



(終)

2011.07.08 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 作品

写真 はざかい

$ユン ヒチャンのよしなしごと-500




「端境(はざかい)」を「葉境」とかくのは当て字のひとつらしい。

でも、私が気になるのは、この葉っぱの境だ。


樹木に茂る葉は、ブロッコリ-のように球形をなす。

地面から樹木を見上げると、葉の茂みは図として、背景の空は地として見えて、その境界は、水平線や地平線のように、一本の線に見える。

ところが、この境界面は実際のところ、一枚一枚の葉っぱの群れで、決して固まりでもない。だから、その境界面は、毛糸のセーターの表面のように、地と図が入り交じっている。

境界面には「在る」と「無い」が入り交じっている。

在ると無い、yes とno、1と0を、はっきりと分ける文明のおかげで、、こうしてブログを簡単に書けることことに感謝をしながらも、一方で、この文明が淘汰してきた別な「在る」と「無い」の在りようについて思いをはせてみる。

「在る」と「無い」が入り交じった状況のままに、ものごとを進める余裕のある文化というものを、せめて想定することで,暮らしの豊かさについて考えたい。


身の回りにある「はざかい」がそれを教えてくれる。

$ユン ヒチャンのよしなしごと


$ユン ヒチャンのよしなしごと



* 掲載の3枚の写真作品「はざかい」は、2009年にギャラリーキャプションで発表した。

2011.05.10 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 作品

黄砂を中国に送り返す


新緑の山の眺めが黄砂に霞んでいる。

毎年、黄砂のニュースを聞く度、思いを新たにするやきものの構想がある。
中国から飛んできた黄砂を、やきものにして、中国に送り返せないものかと。

 ● ●

黄砂をかき集めて、窯に入れて焼いたら、釉薬になるはずだ。茶碗の釉薬に使えるだろう。
すでに微細な粉体なのでそのまま材料として扱いやすい。

1200℃前後ではチョコレートのような色でぽってりとした質感に。釉薬のガラス的成分を増せば、飴色から蜂蜜色のようになるかと思う。
まだ試していないが、鉄分を含んだ土石類だから、だいたいそんな感じかと予想する。

その焼いた黄砂で何ができるか?

植木鉢を作って釉薬にしてもいいかも。
「これで苗を育てて森にしてくださいね。」と。
あるいは、粘土に混ぜて、砂の飛散を押さえる歩道のためにレンガやタイルの意匠につかうのもいい。
「とにかく押さえてね」と。

 ● ● ●

ただ、実用のためのデザインに使うのもいいが、ここはひとつ、黄砂を主題にした表現に仕立てあげたい。
それを中国に送って、皆で眺めて砂漠化について考えたい。

大陸の森林が砂漠化されて露になった地面から舞い上がった土が、ジェット気流に乗って地球を駆け巡る。やがて日本に舞い降りて、春の景色を霞ませるだけでなく、外出を控える程に暮らしに影響を与える黄砂。

経済や情報、CO2や放射線と同じく、国境を越えてお互いが影響を与え合う連環の世界に、私たちが暮らしていることに気づかされる。

21世紀の、この極東の島国での暮らしなかで、個人のレベルを越えて否応なく感じるこの世界のありようと現実感。『今、ここ』のあれやこれやを、やきものに託して表現することが、21世紀的やきもののあり方だ。

あまり嬉しくはないものだが、世界の繋がりの象徴としての中国の黄砂。
それと日本のやきものの土をあわせて、何ができるのか。何を表現できるのか、毎年のこと、思考は巡る。


この構想が何年も思考に終止してきたのは、ひとつには、黄砂をせめてどんぶり一杯程も集める術が思いつかないまま、ここに至っているからだ。

ならば、まずは自動車のボンネットをうさぎ毛の刷毛で掃いて集めるところから始めるべきか。黄砂とともに不純物が混じるのも却って良いかもしれない。東京の街に舞う酸化物と黄砂のコラボレーション。
都市ごと、国ごとに、同じ黄砂の釉薬は微妙に変化するかもしれない。
それを比べて、

「黄砂焼・世界紀行  21世紀 前半編」
 “Hello World Yellow sand works 21c。

をみてみたい。

後半編は後進にまかせるとして。

鼻水をすすりつつ、夢想は広がる。


(終)






2011.05.02 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 作品

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