なぜ四角か


「尹さんはなぜ四角にこだわるのか?」と訊かれることがある。


25年前に、四角い形をした「そこに在るもの」を作り始めた時には、「どこにでもある四角い形が気になるから」以上の言葉がなかったが、その後、自分なりに四角の意味を考えるようになった。
 


修DSCN5180
「そこに在るもの」 2011
  展示風景
   




  ◯


丸や三角形や六角形は、自然界で頻繁にみられる形だ。
空には丸い月が昇り、水面の波紋は同心円に広がる。
こぼれた砂は三角に積み上がり、蜂は六角形を重ねて巣を作る。
ところが、四角は自然界に存在はしない。

(唯一の例外は、黄鉄鉱の結晶だが、これも、結晶同士が相関しながら増えて行くので、平らな6面が90℃に交わる四角は、やはり存在しないと、ロンドンのミネラルギャラリーの主人から聞いたことがある。)

だから、自然界に四角いものが在ったとすると、それが何であるかよりもまず、人がそれを作ったということを読みとりたい。

人類がその発生から、どうやって四角に行きついたのか、正確にはわからない。
四角形を作るのは、円形や三角形や六角形よりも、自然の摂理に逆らう困難さを伴うので、人為や作為といった工夫が必要だ。それでも人は、ある時点で、四角がもつ合理的な便利さを見つけて、相似的な拡大や縮小、組み合わせの明快さを採用し続けてきた。
それは発明とさえ言えるかもしれない。

その便利さは、人の心と頭にも働きかけて、比較や関係の概念だけでなく、人の内面にこの世界を作った。
ここがどんな世界か、どうやって生きるか。そして、自分の生き方を、人との繋がり方を、集団のルールを作った。目に見えるものや、見えないもの、頭の中や心の中にあるものを作っては、四角い箱を積み上げるように、重ねてきた。

世の中を、この営みの蓄積として眺める時、人が何かを作ろうとする意思、生きようとする意思のひたむきさを感じてしまう。
四角はそんな健気な営みを象徴していると思えてならない。


私達の暮らしはこの営みのなかにある。
目に見える四角い形にあふれた環境のなかで、目に見えない作られたものに囲まれて暮らしている。

この数万年間にわたる人間の作る蓄積のおかげで、私たちは毎日を安楽で合理的に過ごせるようになった。その反面、四角いものに囲まれて、作ったものに規定されて、息苦しさも感じている。自分で自分を縛ってしまうように。
面倒なルールがあっても、四角い部屋が時に息苦しくても、街に暮らしたいと思う。と同時に、手つかずの自然の中での暮らしも夢見る。矛盾の営み。

Love and Hate.

四角には、愛と憎しみが、そのまま同居している。
その矛盾こそが人間であり、その矛盾を越えようとすることもまた、人間であろう。
柔らかい粘土を使って「そこに在るもの」を四角く作ろうとすることは、人の矛盾の営みをそのまま作品に込めることである。
作ろうとしたことと、出来上がってしまった結果を受け入れることとの間で、LoveとHateの割合は、だからいつも揺れ動いている。
作る度ごとに、置かれる場所ごとに、見る人ごとに、共振しながら、明滅しながら。

修正DSCN5189
  「そこに在るもの」 2011
    展示 風景
    


 ◯ ◯

「そこに在るもの」は、四角い固まりのように見えるが、焼き物なので中空だ。ヒモ状の粘土を壁のように積み上げながら、箱状に作っていく。
しかし、柔らかい粘土は、四角い形を正確にとどめない。
それに、一度決めた形も、乾きながら収縮や変形をしていく。ひびが入ることさえある。もちろん窯の中で焼く時にも収縮と変形は避けられない。
四角は焼き物で作るには、あまり向いていないかたちなのだ。

四角を作ることの矛盾。

そんな矛盾の営みではあるが、実際に四角を作る時には、手が細かに働きかけ続けて、粘土が成りたがる形を、私が作りたい形に導いて行く。
 Loveとhateを、騙し騙し。
人が手で作るということは、頭で考えるよりも、遥かに細かな肌理で問題を解決するようだ。

私は、あえて道具を使わず、矛盾を梃の支点にして、手だけでどこにでも、当たり前にある四角をつくる。そして、その四角をありふれた四角い環境の中にそっと置いて見る。「ものが、在るように在る、人が、いるようにいる。」そのままに。
人が生きること、そのためにものを作ることへの敬意を込めて。と同時に、生のもつ豊かさへの期待を込めて。


(終)

2011.02.03 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 作品

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