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黄砂を中国に送り返す



新緑の山の眺めが黄砂に霞んでいる。

毎年、黄砂のニュースを聞く度、思いを新たにするやきものの構想がある。
中国から飛んできた黄砂を、やきものにして、中国に送り返せないものかと。

 ● ●

黄砂をかき集めて、窯に入れて焼いたら、釉薬になるはずだ。茶碗の釉薬に使えるだろう。
すでに微細な粉体なのでそのまま材料として扱いやすい。

1200℃前後ではチョコレートのような色でぽってりとした質感に。釉薬のガラス的成分を増せば、飴色から蜂蜜色のようになるかと思う。
まだ試していないが、鉄分を含んだ土石類だから、だいたいそんな感じかと予想する。

その焼いた黄砂で何ができるか?

植木鉢を作って釉薬にしてもいいかも。
「これで苗を育てて森にしてくださいね。」と。
あるいは、粘土に混ぜて、砂の飛散を押さえる歩道のためにレンガやタイルの意匠につかうのもいい。
「とにかく押さえてね」と。

 ● ● ●

ただ、実用のためのデザインに使うのもいいが、ここはひとつ、黄砂を主題にした表現に仕立てあげたい。
それを中国に送って、皆で眺めて砂漠化について考えたい。

大陸の森林が砂漠化されて露になった地面から舞い上がった土が、ジェット気流に乗って地球を駆け巡る。やがて日本に舞い降りて、春の景色を霞ませるだけでなく、外出を控える程に暮らしに影響を与える黄砂。

経済や情報、CO2や放射線と同じく、国境を越えてお互いが影響を与え合う連環の世界に、私たちが暮らしていることに気づかされる。

21世紀の、この極東の島国での暮らしなかで、個人のレベルを越えて否応なく感じるこの世界のありようと現実感。『今、ここ』のあれやこれやを、やきものに託して表現することが、21世紀的やきもののあり方だ。

あまり嬉しくはないものだが、世界の繋がりの象徴としての中国の黄砂。
それと日本のやきものの土をあわせて、何ができるのか。何を表現できるのか、毎年のこと、思考は巡る。


この構想が何年も思考に終止してきたのは、ひとつには、黄砂をせめてどんぶり一杯程も集める術が思いつかないまま、ここに至っているからだ。

ならば、まずは自動車のボンネットをうさぎ毛の刷毛で掃いて集めるところから始めるべきか。黄砂とともに不純物が混じるのも却って良いかもしれない。東京の街に舞う酸化物と黄砂のコラボレーション。
都市ごと、国ごとに、同じ黄砂の釉薬は微妙に変化するかもしれない。
それを比べて、

「黄砂焼・世界紀行  21世紀 前半編」
 “Hello World Yellow sand works 21c。

をみてみたい。

後半編は後進にまかせるとして。

鼻水をすすりつつ、夢想は広がる。


(終)






2011.05.02 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 作品

ありふれたもの 2  ラピスラズリ vs 焼いた土

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         陶粉(地面の土を焼いて粉にした)

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           陶粉(陶土を焼いて粉にした)



20代の終わり頃の夏、学生時代の仲間達と、海あそびの帰りに、神奈川県の真鶴半島にある、中川一政美術館に行った。

深い林を背にして建つ、打ち放しコンクリートの建物の佇まいの良さと、画家の大家の自由闊達な絵に、若い美術作家達は興奮した。

  ● ●

不思議な質感の絵があった。
真鶴漁港でとれた魚、確かカレイか何かを描いた大きな絵の背景が、深くて美しい青色だった。

その煌めく背景の絵を前に、日本画科出身の仲間が、「これラピスラズリが混ぜてあるよ。」と教えてくれた。
そして、画家も大家になると、宝石や準宝石を砕いた粉を岩絵の具として使うことや、昔、東山魁夷がどこかの襖絵を描いた時、材料の群青をたくさん使ったら、群青の時価が跳ね上がったというような、話をしてくれた。

皆が唸った。
宝石を砕いて絵を描くことも、作家が個人の美術館を持つことも、いや、それ以前に、作家が海の見えるアトリエを持つことも、当時の私達には遠くの出来事のように思えたものだ。
 
  ● ● ●

遠くの出来事といえば、誰かの頭蓋骨にダイアモンドをちりばめて、アート作品にするダミアン=ハーストの覚悟と力量は、確かに凄くて特別なのだろう。

だが一方で、紙に鉛筆で、「ひゅるるるー」、と数本の線を引いただけで、人間とその生を豊かに表したマチスのほうが、同じように凄くて特別でも、何だか小気味良い気もする。

ラピスラズリのような特別な石を砕いて絵を描いてもみたいが、その辺の地面の土を窯で焼いて粉にしたものを絵の具にして、「ひゅるるるー」と、描くことをまずは目指したい。

どこにでもあるありふれた土でも、丹念に扱うことで、特別な石と同じようなことができたら、、、と思う。


(終)


2011.03.01 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 作品

なぜ四角か


「尹さんはなぜ四角にこだわるのか?」と訊かれることがある。


25年前に、四角い形をした「そこに在るもの」を作り始めた時には、「どこにでもある四角い形が気になるから」以上の言葉がなかったが、その後、自分なりに四角の意味を考えるようになった。
 


修DSCN5180
「そこに在るもの」 2011
  展示風景
   




  ◯


丸や三角形や六角形は、自然界で頻繁にみられる形だ。
空には丸い月が昇り、水面の波紋は同心円に広がる。
こぼれた砂は三角に積み上がり、蜂は六角形を重ねて巣を作る。
ところが、四角は自然界に存在はしない。

(唯一の例外は、黄鉄鉱の結晶だが、これも、結晶同士が相関しながら増えて行くので、平らな6面が90℃に交わる四角は、やはり存在しないと、ロンドンのミネラルギャラリーの主人から聞いたことがある。)

だから、自然界に四角いものが在ったとすると、それが何であるかよりもまず、人がそれを作ったということを読みとりたい。

人類がその発生から、どうやって四角に行きついたのか、正確にはわからない。
四角形を作るのは、円形や三角形や六角形よりも、自然の摂理に逆らう困難さを伴うので、人為や作為といった工夫が必要だ。それでも人は、ある時点で、四角がもつ合理的な便利さを見つけて、相似的な拡大や縮小、組み合わせの明快さを採用し続けてきた。
それは発明とさえ言えるかもしれない。

その便利さは、人の心と頭にも働きかけて、比較や関係の概念だけでなく、人の内面にこの世界を作った。
ここがどんな世界か、どうやって生きるか。そして、自分の生き方を、人との繋がり方を、集団のルールを作った。目に見えるものや、見えないもの、頭の中や心の中にあるものを作っては、四角い箱を積み上げるように、重ねてきた。

世の中を、この営みの蓄積として眺める時、人が何かを作ろうとする意思、生きようとする意思のひたむきさを感じてしまう。
四角はそんな健気な営みを象徴していると思えてならない。


私達の暮らしはこの営みのなかにある。
目に見える四角い形にあふれた環境のなかで、目に見えない作られたものに囲まれて暮らしている。

この数万年間にわたる人間の作る蓄積のおかげで、私たちは毎日を安楽で合理的に過ごせるようになった。その反面、四角いものに囲まれて、作ったものに規定されて、息苦しさも感じている。自分で自分を縛ってしまうように。
面倒なルールがあっても、四角い部屋が時に息苦しくても、街に暮らしたいと思う。と同時に、手つかずの自然の中での暮らしも夢見る。矛盾の営み。

Love and Hate.

四角には、愛と憎しみが、そのまま同居している。
その矛盾こそが人間であり、その矛盾を越えようとすることもまた、人間であろう。
柔らかい粘土を使って「そこに在るもの」を四角く作ろうとすることは、人の矛盾の営みをそのまま作品に込めることである。
作ろうとしたことと、出来上がってしまった結果を受け入れることとの間で、LoveとHateの割合は、だからいつも揺れ動いている。
作る度ごとに、置かれる場所ごとに、見る人ごとに、共振しながら、明滅しながら。

修正DSCN5189
  「そこに在るもの」 2011
    展示 風景
    


 ◯ ◯

「そこに在るもの」は、四角い固まりのように見えるが、焼き物なので中空だ。ヒモ状の粘土を壁のように積み上げながら、箱状に作っていく。
しかし、柔らかい粘土は、四角い形を正確にとどめない。
それに、一度決めた形も、乾きながら収縮や変形をしていく。ひびが入ることさえある。もちろん窯の中で焼く時にも収縮と変形は避けられない。
四角は焼き物で作るには、あまり向いていないかたちなのだ。

四角を作ることの矛盾。

そんな矛盾の営みではあるが、実際に四角を作る時には、手が細かに働きかけ続けて、粘土が成りたがる形を、私が作りたい形に導いて行く。
 Loveとhateを、騙し騙し。
人が手で作るということは、頭で考えるよりも、遥かに細かな肌理で問題を解決するようだ。

私は、あえて道具を使わず、矛盾を梃の支点にして、手だけでどこにでも、当たり前にある四角をつくる。そして、その四角をありふれた四角い環境の中にそっと置いて見る。「ものが、在るように在る、人が、いるようにいる。」そのままに。
人が生きること、そのためにものを作ることへの敬意を込めて。と同時に、生のもつ豊かさへの期待を込めて。


(終)

2011.02.03 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 作品

なぜ四角か

「尹さんはなぜ四角にこだわるのか?」と訊かれることがある。

25年前に、四角い形をした「そこに在るもの」を作り始めた時には、「どこにでもある四角い形が気になるから」以上の言葉がなかったが、その後、自分なりに四角の意味を考えるようになった。
 
修DSCN5180
「そこに在るもの」 2011
  京都 かみ添での展示
   



  ◯

丸や三角形や六角形は、自然界で頻繁にみられる形だ。
空には丸い月が昇り、水面の波紋は同心円に広がる。
こぼれた砂は三角に積み上がり、蜂は六角形を重ねて巣を作る。
ところが、四角は自然界に存在はしない。

(唯一の例外は、黄鉄鉱の結晶だが、これも、結晶同士が相関しながら増えて行くので、平らな6面が90℃に交わる四角は、やはり存在しないと、ロンドンのミネラルギャラリーの主人から聞いたことがある。)

だから、自然界に四角いものが在ったとすると、それが何であるかよりもまず、人がそれを作ったということを読みとりたい。

人類がその発生から、どうやって四角に行きついたのか、正確にはわからない。
四角形を作るのは、円形や三角形や六角形よりも、自然の摂理に逆らう困難さを伴うので、人為や作為といった工夫が必要だ。それでも人は、ある時点で、四角がもつ合理的な便利さを見つけて、相似的な拡大や縮小、組み合わせの明快さを採用し続けてきた。
それは発明とさえ言えるかもしれない。

その便利さは、人の心と頭にも働きかけて、比較や関係の概念だけでなく、人の内面にこの世界を作った。
ここがどんな世界か、どうやって生きるか。そして、自分の生き方を、人との繋がり方を、集団のルールを作った。目に見えるものや、見えないもの、頭の中や心の中にあるものを作っては、四角い箱を積み上げるように、重ねてきた。

世の中を、この営みの蓄積として眺める時、人が何かを作ろうとする意思、生きようとする意思のひたむきさを感じてしまう。
四角はそんな健気な営みを象徴していると思えてならない。


私達の暮らしはこの営みのなかにある。
目に見える四角い形にあふれた環境のなかで、目に見えない作られたものに囲まれて暮らしている。

この数万年間にわたる人間の作る蓄積のおかげで、私たちは毎日を安楽で合理的に過ごせるようになった。その反面、四角いものに囲まれて、作ったものに規定されて、息苦しさも感じている。自分で自分を縛ってしまうように。
面倒なルールがあっても、四角い部屋が時に息苦しくても、街に暮らしたいと思う。と同時に、手つかずの自然の中での暮らしも夢見る。矛盾の営み。

Love and Hate.

四角には、愛と憎しみが、そのまま同居している。
その矛盾こそが人間であり、その矛盾を越えようとすることもまた、人間であろう。
柔らかい粘土を使って「そこに在るもの」を四角く作ろうとすることは、人の矛盾の営みをそのまま作品に込めることである。
作ろうとしたことと、出来上がってしまった結果を受け入れることとの間で、LoveとHateの割合は、だからいつも揺れ動いている。
作る度ごとに、置かれる場所ごとに、見る人ごとに、共振しながら、明滅しながら。

修正DSCN5189
  「そこに在るもの」 2011
    京都 かみ添での展示
    


 ◯ ◯

「そこに在るもの」は、四角い固まりのように見えるが、焼き物なので中空だ。ヒモ状の粘土を壁のように積み上げながら、箱状に作っていく。
しかし、柔らかい粘土は、四角い形を正確にとどめない。
それに、一度決めた形も、乾きながら収縮や変形をしていく。ひびが入ることさえある。もちろん窯の中で焼く時にも収縮と変形は避けられない。
四角は焼き物で作るには、あまり向いていないかたちなのだ。

四角を作ることの矛盾。

そんな矛盾の営みではあるが、実際に四角を作る時には、手が細かに働きかけ続けて、粘土が成りたがる形を、私が作りたい形に導いて行く。
 Loveとhateを、騙し騙し。
人が手で作るということは、頭で考えるよりも、遥かに細かな肌理で問題を解決するようだ。

私は、あえて道具を使わず、矛盾を梃の支点にして、手だけでどこにでも、当たり前にある四角をつくる。そして、その四角をありふれた四角い環境の中にそっと置いて見る。「ものが、在るように在る、人が、いるようにいる。」そのままに。
人が生きること、そのためにものを作ることへの敬意を込めて。と同時に、生のもつ豊かさへの期待を込めて。


(終)

2011.02.03 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 作品

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