淡い淡い階調
春の夕空の、淡い淡い階調。
なんとなく眺めていると、よく見えてくる。
澄んで見えてくる。
遠くのビルの避雷針は、その物差しになる。
2011.04.13 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 由無し事

春の夕空の、淡い淡い階調。
なんとなく眺めていると、よく見えてくる。
澄んで見えてくる。
遠くのビルの避雷針は、その物差しになる。
2011.04.13 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 由無し事
陶粉(地面の土を焼いて粉にした)
陶粉(陶土を焼いて粉にした)
20代の終わり頃の夏、学生時代の仲間達と、海あそびの帰りに、神奈川県の真鶴半島にある、中川一政美術館に行った。
深い林を背にして建つ、打ち放しコンクリートの建物の佇まいの良さと、画家の大家の自由闊達な絵に、若い美術作家達は興奮した。
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不思議な質感の絵があった。
真鶴漁港でとれた魚、確かカレイか何かを描いた大きな絵の背景が、深くて美しい青色だった。
その煌めく背景の絵を前に、日本画科出身の仲間が、「これラピスラズリが混ぜてあるよ。」と教えてくれた。
そして、画家も大家になると、宝石や準宝石を砕いた粉を岩絵の具として使うことや、昔、東山魁夷がどこかの襖絵を描いた時、材料の群青をたくさん使ったら、群青の時価が跳ね上がったというような、話をしてくれた。
皆が唸った。
宝石を砕いて絵を描くことも、作家が個人の美術館を持つことも、いや、それ以前に、作家が海の見えるアトリエを持つことも、当時の私達には遠くの出来事のように思えたものだ。
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遠くの出来事といえば、誰かの頭蓋骨にダイアモンドをちりばめて、アート作品にするダミアン=ハーストの覚悟と力量は、確かに凄くて特別なのだろう。
だが一方で、紙に鉛筆で、「ひゅるるるー」、と数本の線を引いただけで、人間とその生を豊かに表したマチスのほうが、同じように凄くて特別でも、何だか小気味良い気もする。
ラピスラズリのような特別な石を砕いて絵を描いてもみたいが、その辺の地面の土を窯で焼いて粉にしたものを絵の具にして、「ひゅるるるー」と、描くことをまずは目指したい。
どこにでもあるありふれた土でも、丹念に扱うことで、特別な石と同じようなことができたら、、、と思う。
(終)
2011.03.01 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 由無し事
学生の頃に観たテレビのクイズ番組が、今でも記憶に残っている。
それは、1986年、日曜日の夜7時からの、古館伊知郎が司会をしていた視聴者参加の30分のクイズ番組で、回答者達は、正しい答えよりも、より多くの人が選んだ答えを選ぶことで勝ち残るという妙な趣向だったはずだ。
そして最後まで残った勝者達は、凡人のなかの凡人で、「大凡人」と呼ばれ、番組のエンディングでは、彼らの顔が、カメラで一人ずつ大写しにされて、会場からの「ダイボンジンコール」に讃えられながら終わるというものだった。
この番組は,4ヶ月で打ち切りになったらしく、私はほんの何回かだけ、偶然に見ていたにすぎないようだが、その異様な熱気は今も忘れられない。
● ●
その頃の私は、大学4年生になったばかりで、美術の作家をめざす進路にほぼ心を固めつつあった。
そして、美術の作家というのは、凡人には及ばない、きらめくような才能を持った人や、性格に独特の癖のあるような人、変わった人、おもしろい人、特別な人にしかなることができないと考えていた。
ところが、そんな作家を目指そうとしている自分自身が「普通な自分」であることに悩んでいた。
これといって特徴もなくて、一度会った人から「君誰だっけ?」と言われたりする目立たない自分。
大学の課題でも、目の付けどころ、考えること、作り出すもの、どれも「個性的」とは反対の「ありふれた」自分に向き合うのだった。
そんな時期だったので、堂々とした「大凡人コール」の熱気には、勇気をもらった。
そして、自分に「特別」という幻想を追いかけるのは違うのかもしれない、
普通であることに自信をもっても良いのかもしれないと、思い始めた。
それは、「ありふれた自分」のなかにある「なにか」にきちんと向き合えば、そのままで特別な存在なのだ、という思考の感触だった。
「大切なものは、特別なことよりも、むしろありふれたことの中にある」。
そうだったらいいなと、その頃から考えるようになった。
(終)
2011.02.17 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 由無し事
いつかブログを書いてみようと思い立って、参考のために、ブログ登録の手順を辿るうち、ブログのタイトルをつける画面が出てきてしまった。
どんなタイトルが良いものかと、考え始めてすぐに、「よしなしごと」と思いついたものの、はて?その意味は解ってはいなかった。
調べてみると「よしなしごと」は「良無し事」と書いて、とりとめのない事、つまらない事という意味だった。
当てずっぽうで出てきた言葉が、案外に意味の的を得ているということを、時々経験する。
本当のところ、今日この日にブログを始める気はなかった。
でもなんとなく、水の流れにゆらゆらと運ばれるような感じのまま、登録の手順をヨタヨタと辿り終えて、カタカタとこれを書き始めてしまった。
案外、皆そうやって、ブログを始めるのかもしれない、とも思う。
そう、うっかり、と。
うっかり、ぼんやり、なんとなく、には、ことの本質につながる近道が隠れていると思いたい。
同じく、ゆらゆらとか、ヨタヨタにも、長いものに巻かれる勇気があると考えたい。
とはいえ、近道が見つからずに、遠回りをする事もあるだろうし、結局目的地に辿り着けなかったということもあるだろう。ただ、まあそれでも構わないではないか、と鷹揚に構えよう。
初めての場所に行くのもまた、楽しいに違いないから。
そんなわけで、決め手もないまま見切り発進してしまったこのブログですから、始めに掲げたジャンルや内容について、どこまで沿えるのか判らないのです、、、と既に言い訳を始めながらの、新春1月4日のブログ初めだ。
(次回 そのうち)
2011.01.04 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 由無し事
Author:yoon heechang